日本DX大賞は、自治体や企業などのDXの推進事例から優れたDX事例を掘り起こし、広く共有する機会として2022年から実施しているコンテストです。2024年6月19日に開催されたMX(マネジメントトランスフォーメーション)部門では、デジタル化を通して企業風土や業務プロセス、意思決定に関わるワークフローなどの変革に取り組んだ企業を表彰しています。
重苦しかった社内環境を一新し、全従業員が自立的に意思決定できる組織へ変革した、松本興産株式会社の事例をご紹介します。
1. 変革の背景:つながりのない組織文化の痛み
松本興産のDX推進の根底にあったのは、「心のつながり」の重要性でした。DXに取り組む前、松本興産には、社内の風通しが悪く、3ヶ月で30人もの従業員が退職した時期があったこと、IT人材が在籍しておらず、1,500万円をかけて導入した管理会計システムが1年経っても機能しなかったこと、業務が属人化しており、ブラックボックス化になるなど6つの苦を抱えていたのです。
これらの苦い経験を経て、DXプロジェクトを主導していた取締役の松本めぐみ氏は、「社員全員の心がつながっていないと、DXという変革ができない。心のつながりがDX成功の鍵だ」と確信しました。
2. 従業員の心理的安全性の確保
松本興産は2021年にDXプロジェクトに着手。まず、従業員一人ひとりの強みや生きるうえで大切にしていることを把握するため、全社員の性格診断を実施しました。
また、経営者自らがリーダーとして参画。通常業務の傍ら、DXプロジェクト参加に手を挙げてくれた社員たちを「ファーストペンギン」と名付けました。
並行して、松本興産が特に注力したのが従業員の心理的安全性の確保でした。DXへ嫌悪感を抱いている従業員や不安を抱えている従業員が多いことを知りました。従業員が抱えていた主な不安の内容は以下の3つです。
- 「デジタルが分からず、取り残されるかもしれない」:「誰も置いていかない」をモットーに、ガラケーを使用する従業員でも利用できるよう、ボタンを大きくしたり、イラストを多用したりしてアプリのユーザーインターフェースを工夫。
- 「デジタル化という会社の方針についていかないと、人事評価に響くのではないか」:人事評価にDXの項目を追加せず、頑張った社員には賞与でプラスアルファの評価を行う形式を採用。
- 「仕事がなくなってしまうのではないか」:データ入力の順序を、紙で記入していた頃と同じにするなど、従来の業務フローを尊重。プロジェクト管理に、従来のガントチャートではなく、手書きの絵や図を用いて、より親しみやすく分かりやすい形で計画を共有。
3. Excel地獄からの脱却
松本興産がDXで最初に取り組んだのは、「Excel地獄」の解消でした。DX推進に着手当初、Excelファイルは社員それぞれのパソコンに保存されたままになっていて、他の社員に共有されることなく変化があれば書き足していく、いわゆる「秘伝のタレ」状態に陥っていました。
この問題に対処するため、社員が各自のパソコンに保存しているExcelファイルを全て印刷し、各セルの情報を一つ一つポストイットに書き出す作業を数ヶ月かけて実施。この取り組みの結果、内製化による第1号として検査記録アプリが誕生しました。
松本興産では、自動車部品を毎月およそ500万個出荷しています。出荷の際には約70名の検査員が全ての製品を目視でチェックし、結果を紙に書いていました。こうした一連の検査プロセスに、デジタルを導入しました。アプリ開発には約1年を要しましたが、検査記録アプリは年間1万時間以上の工数削減、1,500万円のコスト削減をもたらしたのです。
この成功が社内に大きなうねりを生み出しました。普通の業務をこなしていた社員たちが、自分たちでもアプリ開発ができるかもしれないと考え始め、自主的な動きが活発化しました。
4. 意思決定の民主化:データ駆動型経営への転換
松本興産のDX推進において、特に革新的だったのが意思決定プロセスの変革です。従来の会議では、社長が意思決定を行うか、社長が不在の場合は空気を読み合うという2パターンに限られていました。
この状況を改善したいと考えた松本氏は、社員にも意思決定に参加させるために、以下の3つのアプローチを行いました。
1. 教育:意思決定は大局を見る視野、自社の業績を理解できることが大前提です。貸借対照表(B/S)と損益計算書(P/L)の読み方を教えるべく、「ブタの貯金箱」と「風船」に置き換えた独自の教育方法「風船会計メソッド」を開発。また、3年以上にわたり毎週他社の決算書も分析し、経営者視点を社員たちと共有しました。
2. ルール作り:決算書をベースに、在庫は7,000万円以下、限界利益は1億3,000万円以上、製品の限界利益率は45%以上などの明確な意思決定のルールを決めました。
3. DX:これまで属人化していたExcelのデータを、アプリで見える化。経理を担当している社員が開発した業績モニターアプリを活用し、常に最新の財務状況を確認可能にしたほか、製品別の原価計算を見やすいグラフで表示し、誰でも原価構造を理解できるようにしました。
これらの取り組みにより、従業員自らが経営的視点を持ち、データに基づいた意思決定ができるようになりました。例えば、製造部の社員が原価データを見て、より効率的な生産方法を自主的に考案するなどの変化が表れました。
5. DX推進の成果:財務改善と従業員満足度向上の好循環
松本興産のDX推進は、具体的な財務成果と従業員満足度の向上という形で実を結びました。
まず、年間固定費4,000万円の削減を実現。DX推進前には200個もあった業績KPI(重要業績評価指標)を、データの可視化によりわずか3つにまで削減できました。DXの結果、削減できた固定費を従業員に還元しており、3年間で平均約4.5%のベースアップを実施しました。DX推進で空いた時間を活用し、創業以来60年で初めて、従業員主導で新たな価値創造に取り組んでいます。
DX推進で成果が出始めてからは、徐々にDX関連のコンテストにもエントリーし、多方面で評価を受けています。
当初ITに詳しい人材がいなかった松本興産は、3年間で全従業員にデジタルスキルが浸透。DXへの不安や失敗した経験を経営陣と従業員が一体となって乗り越え、新たな可能性に挑戦する組織文化が醸成されていったのです。DXの成果を従業員に還元したことで、さらなる従業員のモチベーション向上と生産性改善につながり、DXを通じた「幸せの循環」を生み出しています。
6. まとめ
松本興産のDX推進の最大の特徴は、従業員の心理的安全性を確保していることに尽きます。
DXでの失敗経験から生まれた嫌悪感やDXに抱く不安を一つずつ解消していき、Excelの属人化からの脱出を図り、検査アプリの内製化など、成功体験を積み重ねていくうちに段階的かつ全社的なDX推進に発展していきました。従業員の経営参画を促し、DXによる利益を従業員の賞与・給与アップ、福利厚生といった形で還元したり、多方面からさまざまな評価を受けたりすることで、従業員の間に自信が生まれていきました。単なる業務効率化を超えて、組織文化そのものを変革することに成功しました。
松本興産は、すでに実施している「風船会計メソッド」の他社への提供、作りたい製品の試作やアプリ開発といった、これまでは自動車部品を作っている製造業から、製造業の枠にとらわれないチャレンジを今後も続けていき、企業としてさらに成長を図ろうとしています。