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眞柄サラリーマンとして充実した生活を送っていたセルジオさんに、再びサッカー界から声がかかるわけですね。1972年に日本に来られて日本サッカーリーグの藤和不動産に入られるわけですが、この時もまた大きな決断があったのですか。 セルジオ日本リーグのヤンマーがブラジルから選手を獲得して、すごく強くなったんですね。それを見た他のチームも、先を争ってブラジルから選手を連れてきていたので、「うちも」というかたちで藤和不動産も動いていたんです。親会社のフジタ工業はブラジルにも進出していたので、そこを通じて私のところにオファーが来ました。 もちろん、悩みましたよ。すでにサッカーは引退しているわけですし、営業の仕事も非常に楽しくやらせてもらっていましたから。 そこで社長に相談したら、すぐに「行きなさい」といわれました。アマチュアとはいえ、それなりの給料が保証されていて、交通費や生活費も面倒を見てもらえるうえに、仕事をしながら好きなサッカーができる――。何を悩む必要があるんだ、というわけです。 社長は一生懸命に仕事をして、いずれ子どもを留学させたいと考えていたらしいのですが、彼の目からは、私はタダで留学できる機会を前にして悩んでいると見えたのでしょう。「君が行かないなら、うちの子どもを行かせてくれ」と言ってましたね(笑)。
実は、その前に一度、日本に来るチャンスはあったのです。それは、1964年の東京オリンピックでした。 東京オリンピックの直前、私はブラジル代表候補に選ばれていたんです。この時ばかりは、私の父もサッカーに興味を持ちましたね。「息子のおかげで日本に行ける」と。 日本人は、日本を離れても故郷を捨てられません。私の叔父は、ブラジルの地方で農園をやっていましたが、家には天皇陛下の写真を飾っていたくらいです。もちろん、父も同じようなマインドでしたから、それはもう、大喜びでした。 ところが、コリンチャンスの当時のオーナーがへそ曲がりで、チームから代表を出したくなかったんです。そこで、まだアマチュアだった私にプロ契約を持ちかけてきました。そのころは、プロ選手はオリンピックに出られませんでしたから。 結局、私はプロになり、オリンピック代表として日本に来ることはできなかったのですが、もしその時来日していたら、藤和不動産からの申し出は断っていたかもしれません。 いずれにせよ、ちょっと挑戦してみようか、という程度の感覚で日本に来ました。契約自体、2年にも満たないものでしたから、すぐにブラジルに帰るつもりでいたんです。それが、日本でいろいろな人に出会い、様々なことに関わらせていただいているうちに35年も経ってしまいましたね。 |
1)ブラジルのサッカー少年たちは、デビューをめざす演歌歌手のようなもの
4)ボランティアの力に支えられ、経営難のチームが初のベスト4に
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