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経営を語る

エグゼクティブ対談 【第30回】セルジオ越後
(日光神戸アイスバックス シニアディレクター)

人とのつながりが、仕事と人生に広がりをもたらす(3/5)

舞台を日本に移して、「第3の人生」がスタート

眞柄サラリーマンとして充実した生活を送っていたセルジオさんに、再びサッカー界から声がかかるわけですね。1972年に日本に来られて日本サッカーリーグの藤和不動産に入られるわけですが、この時もまた大きな決断があったのですか。 

セルジオ日本リーグのヤンマーがブラジルから選手を獲得して、すごく強くなったんですね。それを見た他のチームも、先を争ってブラジルから選手を連れてきていたので、「うちも」というかたちで藤和不動産も動いていたんです。親会社のフジタ工業はブラジルにも進出していたので、そこを通じて私のところにオファーが来ました。

 もちろん、悩みましたよ。すでにサッカーは引退しているわけですし、営業の仕事も非常に楽しくやらせてもらっていましたから。

  そこで社長に相談したら、すぐに「行きなさい」といわれました。アマチュアとはいえ、それなりの給料が保証されていて、交通費や生活費も面倒を見てもらえるうえに、仕事をしながら好きなサッカーができる――。何を悩む必要があるんだ、というわけです。

 社長は一生懸命に仕事をして、いずれ子どもを留学させたいと考えていたらしいのですが、彼の目からは、私はタダで留学できる機会を前にして悩んでいると見えたのでしょう。「君が行かないなら、うちの子どもを行かせてくれ」と言ってましたね(笑)。
「もし、日本でダメだったら、またうちの会社に戻ってくればいい」とまで言ってくれました。鉄鋼関係の仕事だから、日本の会社との取引もある。少しでも日本語ができるようになっていれば、大きな戦力になると。それで、来日する決心がついたわけです。

 実は、その前に一度、日本に来るチャンスはあったのです。それは、1964年の東京オリンピックでした。

 東京オリンピックの直前、私はブラジル代表候補に選ばれていたんです。この時ばかりは、私の父もサッカーに興味を持ちましたね。「息子のおかげで日本に行ける」と。

 日本人は、日本を離れても故郷を捨てられません。私の叔父は、ブラジルの地方で農園をやっていましたが、家には天皇陛下の写真を飾っていたくらいです。もちろん、父も同じようなマインドでしたから、それはもう、大喜びでした。

 ところが、コリンチャンスの当時のオーナーがへそ曲がりで、チームから代表を出したくなかったんです。そこで、まだアマチュアだった私にプロ契約を持ちかけてきました。そのころは、プロ選手はオリンピックに出られませんでしたから。

 結局、私はプロになり、オリンピック代表として日本に来ることはできなかったのですが、もしその時来日していたら、藤和不動産からの申し出は断っていたかもしれません。

 いずれにせよ、ちょっと挑戦してみようか、という程度の感覚で日本に来ました。契約自体、2年にも満たないものでしたから、すぐにブラジルに帰るつもりでいたんです。それが、日本でいろいろな人に出会い、様々なことに関わらせていただいているうちに35年も経ってしまいましたね。

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対談目次

1)ブラジルのサッカー少年たちは、デビューをめざす演歌歌手のようなもの

2)第2の人生をスタートするには若いほうがいい

3)舞台を日本に移して、「第3の人生」がスタート

4)ボランティアの力に支えられ、経営難のチームが初のベスト4に

5)過保護すぎる日本では、強いスポーツ選手は育たない

セルジオ越後氏 ゲスト:セルジオ越後氏
日光神戸アイスバックス
シニアディレクター

プロフィール

聞き手:眞柄泰利
マイクロソフト株式会社

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