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眞柄小山さんは実にさまざまな肩書をお持ちですね。徳島の老舗日本料理店「青柳」の3代目であると同時に、料理学校の校長でもあり、レストランなどのプロデュースを手がけているかと思えば、政府関係の役職にも就いていらっしゃる。 これだけいろんな顔をもっておられると、なんとお呼びすればいいのか戸惑いますね。
小山2005年から内閣コンテンツ専門調査委員会の委員を拝命し、また今年の4月からは外務省の管轄である国際交流基金の日本食文化アドバイザー(欧州担当)に就任しました。 肩書は、その場にふさわしいものを使いますが、私個人としては、あくまで料理人です。生涯、現役の料理人でありたいと思っています。 たしかにさまざまな仕事をしていますが、並べて見ていただければわかるように、日本料理という世界からは一歩も出ていません。料理屋の3代目に生まれた天命、何かの縁で料理人にさせていただいた運命と宿命を感じています。 眞柄なるほど。生まれたときから日本料理という食文化に囲まれて育てられたわけですから、これはまさに天命ですね。 小山いま思うと、本当にそのとおりなのですが、でも実は、最初は料理屋を継ぎたくなかったんです。だから大学も機械工学科に行きました。当時は高度成長期の真っただ中で、技術系のほうが社会に出てから給料を3倍もらえるということもありまして。 眞柄サラリーマンになりたかったと。それは意外ですね。 小山昭和30年代にNHKで「バス通り裏」というドラマがありまして、会社から帰ってきたお父さんと一緒に家族が食卓を囲んで団欒するシーンがよく出てきたんですね。 ところが私の家は365日営業みたいなもので、はっきりした休みの日がない。子どものころは板前さんの背中で寝ていましたし。ぜひサラリーマンになって一家団欒というものをやってみたいと、子どものころから思い描いていたんです。 眞柄それが、どうして料理の道に進むことになったのですか?
小山大学の成績があまりよくなくて、就職口が見つかりそうになかったんです(笑)。そこで、大学4年になるちょっと前に、母親に「家を手伝ってやろうか」と言いました。しかし、元々父は「日本料理など斜陽産業だからやるな」と言っていましたし、一言のもとに断られました。 あらためて、きちんと正座して「お手伝いをさせてください」とお願いしたら、父に「やるなら修行に行ってからにしなさい」と。 眞柄そして名店といわれる「吉兆」で修業することになるわけですね。 小山最初は大阪のつる屋さんに就職することが決まっていたんです。しかし、母親が購読していた『暮らしの手帖』の「吉兆つれづればなし」というコラムを読んで、「ここに行きたい」と思ったんですね。 それは連載第1回でしたが、「料理屋の片づけは、黒いゴムの合羽をつけて、包丁を研ぎ始めるところから始まります」と書かれていました。当時は料理人向けの本などまったくない時代ですから、私は料理の世界のことは何も知りません。知らないけれども、その言葉が頭の中にビジュアルとして浮かび、「ああ、ここで働きたいな」と。 それで、さまざまなツテを頼って吉兆さんにお願いにあがり、受けていただいたんです。つる家さんには「体の調子が悪いから」といってお願いをして(笑)。 眞柄日本料理の修業といっても、我々にはテレビドラマで見るようなイメージしかないのですが、やはり苦労されましたか? 小山吉兆へ行くと決まったら、実家で働いていた板前たちに「若、吉兆は厳しいで」といわれました。「糊のばす」というのですが、障子を貼るときに糊を塗りますね。すっとのばすと糊が薄くなる。それほど働かされると愕かされたんです。 実際、先輩に殴られたりすることもあったんですが、私は武道をやっていましたから、全然平気でした。「小山を叩くと手が痛い」といって、鍋とかまな板で殴る先輩もいたぐらいで(笑)。 後で聞いた話ですが、私が吉兆で修業しているあいだ、母はしばらくの間、毎朝6時ごろ起きて玄関に立っていたそうです。私が荷物をまとめて逃げ帰ってくるんじゃないかと心配していたらしいですね。 眞柄しかしその期間は、小山さんの人生に大きな影響を及ぼしたでしょうね。 小山影響というか……吉兆にいたのは4年に足らずでしたが、今日の私があるのは、あの修業時代のおかげです。日本料理ってすばらしいものだということを、この期間に教えていただきました。 それ以来、吉兆の創業者である湯木貞一さんとはご縁をいただいて、1999年にお亡くなりになるまで、ときどき一緒にお食事をさせていただいたり、徳島にも毎年来ていただいたりしたんですよ。
眞柄いわゆる“伝説の料理人”としての素地も、この時期につくられたと。 小山私が少し有名になったのは、「小山のつくった鯛の切り身は違う」と評価していただいたからです。これは吉兆時代をベースにした修業のたまものだと思いますね。 日本料理の包丁は一方の面からだけ研いで刃がつけてあります。だから、ふつうに使うとまっすぐ切れない。そこを修業でまっすぐ切れるようにするんです。一方、西洋包丁は両面から研いだ刃なので、まっすぐ切ることは簡単です。しかし、材料にくさびのように入り込んでいくので、切るというよりは割くイメージですね。材料には刃がほとんど当たりません。切れ味という意味では、日本の包丁のほうがエッジが利いて、艶のある仕上がりになります。 私が鯛を切ると、まっすぐ切れるのはもちろんなのですが、切断面の両側がふっと膨らむんです。筋肉の膜の中に押し込められていたものが、解き放たれるんですね。これは、NHKの番組で、ハイビジョン映像を使って撮影頂いたのですが自分でも驚いたほどです。 また、職人芸を表す言葉として「鱧を一寸、二四に切る」というものがあります。一寸、つまり3.3センチのものを24に切るのは大変です。20くらいまではすぐできるのですが、24にするにはあと0.03ミリずつ小さく切れるようにならなければならない。この壁が高いんです。おかげさまで、私もそうしたことはだいたいできるようになりました。 あと、私が魚を切るときは、まな板に傷がつきません。魚だけを切りますから。「そんなことできるはずがない」と言われますが、修業を積めばできるようになるんです。 長年の歴史と伝統と職人の技術――“伝説”というものはそれらの狭間で生まれます。だから、伝説は神話でもなんでもなく、事実なんです。私は基本的には、伝説を具現化していきたいと思っているんですよ。 眞柄なるほど。日本料理の世界は特に“伝説”がたくさんありそうですね。それらをすべて実現していきたいと。 小山古くからの言葉に「鯛を三太刀でおろす」というものがあります。包丁を3回振るうだけで鯛をおろすという意味で、私も修業してできるようになりました。そうしたら、出刃包丁があの形でなければならないということに気づいたんですね。鯛を三太刀でおろさないのであれば、出刃包丁は別の形でもかまわないんです。 つまり、「鯛を三太刀でおろす」という伝説的な技も、実は日本料理の歴史と職人技の中ですでに確立されたものであって、だから出刃包丁は必然的にあのような形になっているわけです。 |
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