女将塾とは、文字通り女将を養成する教育機関です。教育機関というからには、なんらかの教科書やOJTマニュアルのようなものが当然存在するものと思う方が多いようです。実際、塾生希望者の中でも、「えっ、マニュアルはないのですかぁ」と驚かれるほどです。
マニュアルの存在意義や機能を私なりに考えてみたのですが、それには2つあると思います。1つは、質の低い労働層に対し有効であること。2つめは業務範囲、あるいは責任を明示することではないかと思うのです。
まず女将塾では、新卒者は入塾できません。塾生には社会人経験が必須であり、なおかつ高いモチベーションとモラルをお持ちでない方は入塾をお断りしています。また、塾生が目指す女将には、業務範囲や責任範囲というものは存在しません。女将はその旅館のすべてに責任を持つ存在ですので、私はここまでやったので、あとはあなたの責任でよろしく、というような責任の切り分けや分担はできないからです。こういう背景から、女将塾にとってマニュアルは相容れない存在、という次第です。

女将塾のマネージメント領域は、
旅館業のみならず高級料亭の運営にもおよぶ。
東京・雑司ヶ谷の料亭「寛(かん)
」
女将、あるいは女将を目指す塾生がもっとも気にかけなければならないことは、お客さまへのサービス、つまり、お客さまに感動していただくことです。
お客さまに感動していただく方法というものは存在しません。Aというお客さまに喜ばれたことが、Bというお客さまに喜ばれるとは限りません。また、同じAというお客さまでも、去年喜んでいただいたことを、今年も喜んでいただけるかどうかはわかりません。さらに、私がお客さまにしてさしあげて喜んでいただいたことを、塾生が同じお客さまにおこなっても喜んでもらえるとは限りません。かように私たちが目指そうとする感動とは複雑、かつ気まぐれなのです。
感動には、もう一つ真理があります。それは、お金をかければお客さまが喜ばれたり、感動するかというと、それは違うということです。ちょっと下品な言い方をさせていただくと、お客さまを感動させることはタダでもできるということです。
塾生とこのテーマでよくブレインストーミングをするのですが、塾生からはお客さまになにかプレゼントをするというアイデアが必ずでてきます。しかし、銀花が対象とするリッチなお客さまに対し、数百円のハンカチが喜ばれるでしょうか。あるいは、宿のパンフレットに、ウェルカムドリンク進呈と記載して、感動されるでしょうか? サービスとはメニューに記載された時点で、もうお客さまを驚かせることはできません。それはただのオペレーションになってしまうのです。
これは女将塾で実際に起きた話です。ある塾生が、お客さまの夕食を用意しているときに、ふと、そのお客さまが宿帳を書いているシーンを思い出したそうです。そのお客さまは左利きでした。彼女は無意識のうちに、というか身体が自然に動き、お箸を左に向けておいたのです。食後、お客さまは彼女を呼び出し、なぜお箸を左向きに置いたかを尋ね、その答えにいたく感動されたそうです。お客さまがおっしゃるには、その方が10年来通い続けている寿司屋ですら、一度も左利き用に箸が置かれたことはない。なぜ、初めて来た宿でこのようなことが起きるのかと、不思議に思い、そのわけを知りたくなったというのです。
世界に名だたる超高級ホテルにもマニュアルはあります。しかし、究極のサービス業である日本旅館の女将を目指すものにとって、マニュアルに記載できる程度のサービスはサービスたりえないのです。